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1933~1965年

暗黒の時代と再建

 遅くとも1932年のドイツ選手権を制して以降、バイエルン・ミュンヘンは国内の強豪クラブの一角として数えられるようになった。しかしながら、ジーメッツライター、ゴールトブルナー、モルが1936年のベルリン五輪にドイツ代表チームとして参加した後、サッカーを楽しむ雰囲気は消滅した。と言うのも、第2次世界大戦が勃発し、国全体がスポーツどころではなくなったのだ。そしてそれはバイエルン・ミュンヘンにおいても例外ではなかった。

 バイエルンもそのユダヤ人との関わりから、色々な面で冷遇を受けた。会員数、チーム数、観客数は急激に減少。12年間のファシスト独裁政権下では、バイエルンはトップの地位を失い、ナチス・ドイツでのランキングは81位に転落した。

 1944年、バイエルンは彼らの拠点を失う。爆弾によってクラブハウスが破壊されたのだ。それでも選手たちはチームスピリットを見せる。終戦数日前の1945年4月23日、バイエルンは1860ミュンヘンに対して3-2の勝利を収めた。クラブ史によると56人の会員が戦場で命を落とした。その中には、代表選手のヨーゼフ・ベルクマイアーとフランツ・クルムの名前も含まれていた。他の大勢の会員の行方もわからないままとなり、人種、政治、宗教的な理由でナチス政権から迫害を受けた7人は殺害された。長年バイエルンの会長を務めたクルト・ランダウアーは、ユダヤ人であるが故にダッハウの強制集収容所に8週間収容され、後にスイスへと亡命した。

ハイドカンプがチームをまとめた

 長期間キャプテンを務めたコニー・ハイドカンプは、戦争が進み、混乱を極めた時期でさえチームをまとめた。そして妻のマグダレーナと共に獲得した優勝カップを守り抜いたのだ。1942年の夏の終わり頃、空襲がミュンヘンの街を襲う。もちろん優勝カップも危険に晒されたのだが、その時マグダレーナは、子供時代に休みを過ごしたヴォルフラーツハウゼン近郊のアショルディングにある農家を思い出した。カップは箱に梱包して木炭車で運ばれ、件の農家の家畜小屋の隣のスペースに保管されることになった。しかしここで安全に保管されたのも、1945年の2月までのことだった。アメリカ軍が迫ってきたのだ。アメリカ軍はトロフィーやペナント、記念エンブレムなどを略奪するという噂が伝わった。価値あるクラブのトロフィーを救ったのは、またもやハイドカンプ夫婦だ。彼らは優勝カップをアショルディングの農家に埋めて隠した。

 戦争終結から6週間後(1945年5月8日)、バイエルンは再び試合を行った。この試合では、地元のライバルであるFCバッカーに3-4で敗れた。1945年、ランダウアーが亡命先から帰還すると、再び会長に選出された。するとサッカー界でも再建が始まる。そしてその9年後、大熱狂がドイツ中を包んだ。1954年のスイスW杯で、西ドイツ代表が優勝。ゼップ・ヘルベルガー率いる西ドイツ代表は、W杯の決勝戦において3-2でハンガリーを下した。その試合は、バイエルンのヤコブ・シュトライトレにとっては悔しい経験となった。ドイツ代表15キャップを誇るシュトライトレは、その試合を観客席から見守らなければならなかった。

 その後、バイエルンの選手が一人もいないドイツ代表というのは、稀な光景となっていった。1957年、満員の42,000人の観客が押しかけたアウグスブルクのローゼナウ・スタジアムで、バイエルンはDFBポカール初優勝を飾った。ヨブストが決勝点を挙げ、1-0でフォルトゥナ・デュッセルドルフに勝利した。しかしその後は、しばしの忍耐の時期と大きな失望が続いた。というのもバイエルンは1963年のブンデスリーガ創設メンバーからもれたのだった。

バイエルンではなく1860:後から考えると幸運だった

 ドイツサッカー連盟は、ミュンヘンの代表としてFCバイエルンではなく、地元のライバル1860ミュンヘンをブンデスリーガの創設メンバーとして選んだ。当時の会長ヴィルヘルム・ノイデッカーが、ひどく不公平な審理とみなしたこのことこそが、後から考えるとクラブにとっての幸運だった。下部リーグへの降格後、なんとか経済的な崩壊を免れたように、以前からバイエルンの経済状況は逼迫していた。そのため彼らは、高給取りのスター選手を獲得することを諦め、自前の育成選手や地元バイエルの才能ある選手たちを獲得することになった。そしてその中から、フランツ・ベッケンバウアーやゼップ・マイヤー、ゲルト・ミュラーらが生まれた。

 ノイデッカーは、バイエルンにプロフェッショナルな組織を作った。ロベルト・シュヴァーンをドイツサッカー界で初めて本職のマネージャーに据え、賢く、ユーゴスラビア出身で、成功に満ち溢れたズラトコ・チック・カイコヴスキを監督に招聘した。初めての昇格へのチャレンジとなった1964年は、ボルシア・ノインキルヒェンの前に敗れたものの、1964–1965シーズンには、リーグ戦で優勝し、昇格プレーオフでも1位となった。こうしてバイエルン・ミュンヘンは、ようやくブンデスリーガ入りを果たしたのだ。ノイデッカー会長は約束を果たし、500人のファンと共にテガーンゼーを行進した。

FCバイエルの歴史