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1966~1979年

黄金期

 1965-66シーズン、初めてブンデスリーガを戦い抜いたFCバイエルンは、3位という好成績でフィニッシュした。1960年代半ば、バイエルンユースが輩出した史上最高GKゼップ・マイヤーとスイーパーのフランツ・ベッケンバウアーがチームの躍進を支え、若きCFゲルト・ミュラーがTSVネルトリンゲンからバイエルンにやって来た。この3選手は、それぞれのポジションで世界最高峰の選手にまで成長し、共にバイエルン黄金期を作り上げていった。

 チームメイトに屈強な主将ヴェルナー・オルク、身体能力抜群のフランツ"ブレ"ロート、超危険人物ライナー・オールハウザーなどが、ブンデスリーガやカップ戦で次々と相手チームを倒していった。そして1966年にドイツカップ優勝を果たし、その1年後にグラスゴー・レンジャーズを1-0で下し、ユーロピアン・カップ・ウィナーズ・カップで優勝を成し遂げる。しかし、魅惑的な攻撃サッカーを掲げるズラトコ・チャイコフスキー監督就任中に、リーグ優勝を成し遂げられることはなかった。すると1968年夏から、厳格な人格の持ち主ブランコ・ゼベッチがバイエルン監督に就任した。

 ゼベッチは、バイエルンの選手にビールを飲むことを禁止する。これに対し評論家たちは、最終的に失敗に終わるだろうと考えていたが、ファンたちの心にはそんな心配などほんの少しもなかった。事実この年、バイエルンは国内2冠を達成する(リーグ戦では2位のアレマニア・アーヘンに勝点8ポイント差で優勝、ドイツカップ決勝ではシャルケに勝利)。そしてここから、ボルシアMGがバイエルンと数年間、優勝争いを繰り広げることになり、1970年と1971年にボルシアMGがバイエルンを抑えて、ブンデスリーガ2連覇を果たした。

オリンピック・スタジアムで喜ぶ理由

 1972年は喜びの年となった。1972年7月28日、ブンデスリーガで初めて行った新しいホームスタジアムでの試合で、バイエルンはシャルケを5-1で下し3度目のリーグタイトルと120万ドイツマルク(約1億円)を獲得したのだ。そして、バイエルンの未来と経済的成功のために財団法人が、設立された。

 さらにその年、今日でも破られていない記録が達成される。ゲルト・ミュラーが、1シーズンで最多となる40ゴールをマーク。そして、獲得可能最多勝点の68ポイント(1勝で勝点2)のうち、バイエルンは勝点55を獲得し、ブンデスリーガ新記録を更新した。

 ウド・ラテック監督率いるバイエルンは、さらに2度のリーグタイトルを獲得。1974年にはユーロピアン・カップ優勝を果たし、初のヨーロッパ大会の栄冠を勝ち取った。その決勝戦では、"カッチェ"シュヴァルツェンベックがアトレティコ・マドリード戦の延長終盤にゴールを決め、1-1となり再試合が決定する。ブリュッセルで開催された再試合は、ウリ・ヘーネスとゲルト・ミュラーが2ゴールを決め、バイエルンが4-0でアトレティコ・マドリードに勝利した。

ユーロピアン・カップ3連覇

 ミュンヘンで行われた1974年W杯決勝で、ドイツ代表はオランダを下して優勝した。2-1でオランダを下した決勝の先発メンバーには、バイエルンの選手が6名も選ばれていた(マイヤー、ベッケンバウアー、シュヴァルツェンベック、ブライトナー、ヘーネス、ミュラー)。しかも、そのうちの2人がスコアシートに名を刻む。ブライトナーがPKを決め、ミュラーが振り向きざまから驚愕のシュートを放ってゴールを奪った。

 当時のバイエルンは、ブンデスリーガ優勝から遠ざかっている(1980年まで)一方で、ユーロピアン・カップ3連覇を成し遂げる。1975年(パリで開催された対リーズ・ユナイテッド戦は、ロートとミュラーのゴールで2-0)と1976年(グラスゴーで開催された対ASサンテティエヌ戦は、ロートのゴールで1-0)、デットマー・クラマーの活躍によりバイエルンがユーロピアン・カップで優勝。1976年には、インターコンチネンタル・カップを制覇(対クルゼイロ・ECと戦い、1stレグ0-0、2nd レグ2-0)。しかし、このタイトル獲得を最後にバイエルンは、20世紀の欧州主要タイトルを逃し続けることになる。

 試行錯誤を繰り返したバイエルンだが、数年トロフィーから遠ざかる。1977年、フランツ・ベッケンバウアーが米国プロサッカーリーグに加盟していたニューヨーク・コスモスに移籍する。そして、その1年後にゲルト・ミュラーもアメリカのフォルト・ローダーデールに移籍した。

ヘーネスの時代が始動

 1979年、ベッケンバウアーのエージェントとバイエルンのGMを兼務していたロベルト・シュヴァンの後任に、当時27歳のウリ・ヘーネスが任命された。さらに、パル・チェルナイが、ジュラ・ローナントから監督を引き継ぐ。そして、ノイデッカーがかつて1860ミュンヘンでプレーしていたマックス・メルケルをバイエルン監督に任命。しかし、これをチームが頑なに拒否する。ノイデッカーは、この責任をとってバイエルン会長を退き、新会長にヴィリ・O.ホッフマンが就任した。

 ヘーネスが、1979年に選手からGMに就任した時、バイエルンは700万ドイツマルク(約4億円)の負債を抱えていた。バイエルンの年商は当時、1200万ドイツマルク(約7億円)だった。30年後、ヘーネスがGMからクラブ会長に就任した時、バイエルンの年商は3億ユーロ(約345億円)を超える。そして、バイエルンは世界でも指折りの資金力を誇るチームとなった。

FCバイエルンの歴史