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1933年3月22日

FCB会長ランダウアー、辞任を余儀なくされる

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 FCバイエルンの名誉会長ウリ・ヘーネスは、「クルト・ランダウアーはFCバイエルンの偉大な会長の1人、いや最も偉大な会長といえるかもしれない」と、クラブに対するランダウアーの貢献を称えた。FCBで長年会長を務めたランダウアーはワイマール共和国時代のドイツサッカー界で最も先見の明のあった人物として知られている。同氏のおかげでFCBはゼーベナー通りを故郷とすることができた。しかしランダウアーの長く、成功に満ちたバイエルン時代において、3月22日という日付は暗澹とした記憶と結びついている。

大きな成功の直後の辞任

 ミュンヘン郊外のプラネッグに住むユダヤ人実業家の息子として1884年7月28日に生まれたランダウアーは1933年のこの日、ドイツの新しい政治情勢により、ユダヤ人であることを理由に辞任を迫られた。これによりFCバイエルンは、その9カ月前に初めてのドイツリーグ優勝を共に祝った会長であり、クラブに大きな力を与えた実力者を失うこととなった。

FCバイエルンのドイツリーグ初優勝について、詳しくはこちら:

計19年FCB会長を務める

 ランダウアーは既に1901年に現役サッカー選手としてクラブに加入した。同氏は後にFCバイエルンの様々な役職を経験し、1913年から1951年の間に4回クラブ会長に選出され、計19年間会長職に就いた。その間のランダウアーのクラブに対する貢献は多大なものだった。

1947年:盛大に祝われたミュンヘン帰還

 1933年3月22日に会長職を退いたランダウアーは1938年11月にダッハウ強制収容所に送られたが、第一次世界大戦で従軍していたため33日間で収容所を出ることを許された。ランダウアーは1939年3月15日にスイスへ亡命したが、第二次世界大戦終戦後の1947年6月にミュンヘンに戻った。この喜ばしい知らせは、当時『シュポルトマガジン』で「クルト・ランダウアー、南ドイツのサッカーのパイオニアが亡命から帰還」と報じられた。

1961年にミュンヘンで逝去

 それから間を置かず、FCバイエルンはクルト・ランダウアーを再び会長に選んだ。ランダウアーは1951年にFCバイエルンの会長を辞任。その10年後の1961年12月21日に、当時77歳のランダウアーはミュンヘンでこの世を去った。

名誉会長に任命

 ランダウアーは2013年、ドイツマイスターFCBに対するその貢献により、名誉会長に任命された。更にその2年後には、アリアンツ・アレーナのプロムナードにクルト=ランダウアー広場が完成した。また2019年5月には、ゼーベナー通りのトレーニング場にブロンズ像が建てられた。

FCバイエルンのパイオニア

 クラブの代表取締役社長カール=ハインツ・ルンメニゲは、「クルト・ランダウアーはそのオープンマインドにより、私個人にとって初めての近代的な会長だ」とかつてのFCB会長に敬意を表し、以下のように続けた:「彼は開拓者としての仕事を果たした。それもFCバイエルンにとって厳しい時代にだ。私が今日、国際性とオープンさ、プロフェッショナルであること、そして安定性を尊重するこのクラブの代表取締役社長であることを誇りに思う。それもクルト・ランダウアーがその和解のカルチャーにおいて我々よりも一足先に進んでいたおかげだ」

FCバイエルンは常にいかなる場所でも差別と侮辱、不寛容に対して反対姿勢を示している。FCバイエルンのアクション“レイシズムにレッドカード”はこちら: