presented by
Search Fill-1
Menu
  1. ニュース一覧
  2. ラウドルップからリザラズまで:ミア・サン・ヨーロッパチャンピオン ― 第二部
  • ニュース一覧
  • ラウドルップからリザラズまで:ミア・サン・ヨーロッパチャンピオン ― 第二部
ユーロ制覇を成し遂げたFCバイエルンの選手たち

ラウドルップからリザラズまで:ミア・サン・ヨーロッパチャンピオン ― 第二部

Increase font size Text size

 今夏、16代目欧州王者を決めるユーロ2020にFCバイエルンから14選手が参加する。歴史を紐解くと、これまで数多くのドイツ絶対王者達が同タイトル制覇を成し遂げた。今週11日(金)から開幕となるアンリ・ドロネー杯を巡る戦いにおいて、優勝を経験したFCB選手は17名にものぼる。第2部では1992年、1996年、2000年の同大会を振り返る。第1部はこちら

1992年:代理出場で王座戴冠

センセーショナルな革命:1992年、ブライアン・ラウドルップがアンリ・ドロネー杯を手にした。

 1992年に下されたスポーツ政策上の決定を受けて欧州選手本戦参加となったデンマーク代表が、サッカー界における前代未聞の大旋風を巻き起こした。バルカン半島における内戦を理由に出場禁止処分を受けたユーゴスラビアに代わって、繰り上げ出場となったデンマークがFCバイエルン所属のブライアン・ラウドルップと共に「ダニッシュ・ダイナマイト」として猛威を振るったのだ。

 誰一人、大きな期待はしていなかった。事実ラウドルップすら、アメリカ行きの飛行機を既に予約していた - それも大会閉幕4日前のフライトを。最終的にドイツとの決勝戦があったためフライトはキャンセルを余儀なくされた。デンマークが決勝までの90分間で勝負を決めたのは1試合にとどまったが、イェーテボリにおける1夜では90分以内に2得点を奪った。「デンマークの王子」と呼ばれたラウドルップは先発で出場、ベルティ・フォクツ監督率いるドイツ代表として戦ったFCバイエルンのチームメイトが失意に沈む傍、大会制覇に歓喜した。「友人シュテファン・エッフェンベルクとの一騎打ちでラウドルップに軍配」の見出しが、後にバイエルンのクラブ報を飾った。それは1990年から1992年までFCバイエルンで62試合に出場した、同選手に関する最後の記述だった。ラウドルップが欧州王者としてバイエルンのユニフォームに再び袖を通すことはなかった。同選手は欧州選手権の傍ら、既にフィオレンティーナへの移籍を宣言していたのだ。

1996年:スターはチーム

FCバイエルンのバッベル(背番号14)、ヘルマー(背番号5)、ツィーゲ(背番号17)、クリンスマン(背番号18)は1996年、ドイツ代表の主力選手として出場。

 参加枠を16チームに拡大し開催された初の欧州選手権 – そこでドイツはかつてないほどの選手不足に喘いでいた。この状況を考慮するとウェンブリーでの – オリヴァー・ビアホフのゴールデンゴールによる – ドイツの大会制覇はより一層重みを増すと言えるだろう。ベルティ・フォクツ率いるドイツに負傷離脱者が続出したことにより、決勝のチェコ戦を前にFCバイエルンのキーパー、オリヴェー・カーンは同じくGKであるオリヴァー・レック同様、フィールドプレーヤー用のユニフォームを与えらていたという、当時の状況を物語る逸話も残されている。フォクツはドイツにとり3度目となる欧州選手権制覇に向け、ほぼ全選手を必要としていた。1996年6月8日から30日にかけて、「スターはチーム」という言葉がこれほど適切に使われた例はないだろう。

 FCバイエルンからは7選手が招集され、その全員がタイトル獲得への険しい道のりでチームに大きく貢献。未出場に終わったのは、当時正GKアンドレアス・ケプケの控えに回ったオリヴァー・カーンだけだった。3度にわたって世界最優秀GKに輝きバイエルンで632試合に出場した「タイタン」は、強力なバックアップとしてチームをベンチから積極的にサポート、FCBのチームメイトであるユルゲン・クリンスマンがキャプテンとしてチームを牽引する姿を網膜に焼きつけた。同ストライカーはホスト国イングランドとの準決勝で「キャリアにおける唯一の筋肉の負傷」を負ったものの決勝戦までには回復、ウェンブリーで95分間プレーしチームの原動力となった - ビアホフが決勝点をあげるその瞬間まで。

キャプテンと決勝戦のヒーロー: ユルゲン・クリンスマンとオリヴァー・ビアホフは、3-0の勝利を収めたグループステージ対ロシア戦同様、イングランドで数々の勝利を祝っ

 近代的リベロであるマティアス・ザマー、PKキラーのケプケ、そして大会後更に1シーズン、ミュンヘンに残ったクリンスマン(84試合48得点):チームを象徴する選手たちが存在した一方で、トーマス・ヘルマー(代表68試合/バイエルン246試合)をはじめとする勤労者がいなければタイトル獲得は実現しなかったはずだ。1992年から1999年までの2年間、ミュンヘンでキャプテンを務めた同CBが、同大会で欠場した時間は僅か10分。また初戦で負傷を負ったユルゲン・コーラーの離脱後、マルクス・バッベル(代表51試合/バイエルン261試合)もイングランドで全試合に出場。バイエルン出身の同DFは1996年に代表デビューを飾り51試合に出場、ウェンブリーにおける決勝戦ではSHで先発したトーマス・シュトルンツ(代表41試合/バイエルン220試合)と右サイドを担った。ミュンヘンで既にお互いを知り尽くしている2選手 – これもまた成功の秘訣だ。

 クリスティアン・ツィーゲは全試合時間600分に出場し左SBとして活躍、奮励努力に徹し不屈の精神で戦い抜いた。1996年から2004年にかけてツィーゲ(代表72試合/バイエルン227試合)は欧州選手権およびW杯の決勝全試合に出場、イングランドにおける決勝戦ではビアホフの先制ゴールをお膳立てした。同選手は現ドイツサッカー連盟ディレクターが挙げた2得点に、ある意味メフメト・ショル(代表36試合/バイエルン469試合)同様、関わっていたと言えるだろう。ショルはビアホフに代わって69分にピッチを下りた。バイエルンの同MFは当時ドイツ代表の主力選手ではなかったものの、イングランドでは準々決勝以降先発で起用された。ショルのトリッキーなMFとしての能力は – FCバイエルン同様 – チームに必要とされていたのだ。

2000年:タイトルコレクター・リザ

タイトル総なめ:ワールドカップ制覇から2年後、ビセンテ・リザラズは欧州選手権でもフランス代表と共に優勝を飾った。

 ユーロ2000決勝戦で勝負を決する2ゴールが挙がったとき、ビセンテ・リザラズは既にピッチを下りていた。だがそれは、同バイエルン所属選手が自国の欧州タイトル獲得に貢献した事実を覆すものではない。同左SBはワールドカップ制覇の2年後、ロッテルダムで行われたイタリアとの決勝戦を含む欧州選手権4試合に出場し再びタイトルを獲得、だが1-1の同点ゴールが生まれる8分前、ダヴィド・トレゼゲのゴールデンゴールが決まる17分前の86分に戦線を退いていた。ベルギーとオランダによる共同開催の同大会でドイツはグループ最下位として既に敗退していたが、バイエルンは王者誕生に歓喜することとなった。そしてタイトル獲得を熟知するリザラズ(バイエルン273試合)擁するバイエルンはその1年後、チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げたのである。

 FCバイエルン・ミュージアムのツアーではドイツ絶対王者の歴史を辿ることができる:

News