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初のドイツマイスター

コンラード・ハイドカンプ

 コンラード・“コニー”・ハイドカンプがFCバイエルンに加入したのは、1928-29シーズンのことだった。デュッセルドルフ出身で、そのシュート力の強さから”擲弾兵”の異名を持つハイドカンプは、特に対人戦での強さと精確なパスワークにより左サイドバックとして信頼を集めた。そしてFCバイエルンのキャプテンいうイメージに、同氏ほどふさわしい者はいないだろう。特にナチス政権下の暗黒時代や戦時・戦後において、ドイツ代表でもあったハイドカンプはチームとクラブの団結に一役買っていた。

 だがハイドカンプが模範となったのは、クラブ内だけのことではない。例えば1940年に多くのクラブが国家元帥へルマン・ゲーリングの金属供出に応じ、溶かして武器にするために優勝杯を差し出したのに対して、バイエルンは求めに応じずにクラブの優勝杯を保持し、ミュンヘン市内の事務所に保管していた。しかし1942年の夏の終わり、ミュンヘンが空襲に遭い、バイエルンのトロフィーも危険に晒された。その時に救いとなるアイデアを思いついたのが、キャプテン・コニーの妻であるマグダレーナ・ハイドカンプだった。彼女は、子供時代に休暇で訪れたヴォルフラーツハウゼン近郊のアショルディングにある農家を思いついたのだ。トロフィーなどは箱に梱包して木炭車で運ばれ、件の農家の家畜小屋の隣のスペースに保管されることになった。

 バイエルンの優勝杯はアメリカ軍進駐直前の1945年の春まで上記の場所に保管された。しかし当時、アメリカ軍はトロフィーやペナント、記念エンブレムなどを略奪するという噂が立った。価値あるクラブのトロフィーを救ったのは、またもやハイドカンプ夫婦だ。夫婦はアメリカ軍到着に先立ち、トロフィーなどをアショルディングの農家に埋めて隠した。

1932年に初優勝をもたらしたヒーロー

 それから25年以上経ったある日、マグダ・ハイドカンプはゼーベナー通りにオープンしたばかりのクラブミュージアムを訪れた。彼女は、「私は、その時初めてトロフィーを見たのだった。それまでは箱に詰めた状態でしか知らなかったのだ」と、その著書『コニー・ハイドカンプと過ごした人生』の中で述べている。

 コニー・ハイドカンプにとって最大のスポーツ上の成功は、1932年のドイツリーグ優勝だろう。そしてこれは、FCバイエルンにとってクラブ史上初めての優勝だった。アイントラハト・フランクフルト相手に2-0で勝利したこの試合にて、ハイドカンプは主将としてFCバイエルンのチームを率いた。

 

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