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1980~1989年

飛躍と変化

 5年間、優勝から遠ざかっていたバイエルンをGMヘーネス、ブライトナー、ルンメニゲが、成功の道へと導く。タブロイド新聞は、この卓越した2名の選手を合わせて“ブライトニゲ“と名づけた。闘争心が溢れるブライトナーとルンメニゲは、世界的スーパースターとなる。非凡なドリブラーとストライカーは、バイエルン在籍期間に合計で218ゴールを記録。ブライトナーだけでも110ゴールを決めている。2人は共に、リーグ優勝を2度、ドイツカップ優勝を1度経験した。

 「我々は、1970年代にバイエルンの復活を見た」と、ルンメニゲが語っている。1980年のブンデスリーガは、バイエルンの5度目の優勝で終わる。バイエルンは、その他のライバルチームを抑えて、ブンデスリーガ最多優勝チームとなり、国内を魅了する新しいバイエルン州のチームとして、ドイツサッカー界の王者に君臨し続けた。その翌シーズンも、バイエルンが優勝を成し遂げる。ハンブルガーSV、VfBシュトゥットガルト、カイザースラウテルンが、どちらのシーズンもバイエルンと優勝を争った。

 1982年にバイエルンは、ドイツカップ決勝でFCニュルンベルクと伝説的な試合を繰り広げる。バイエルンは0-2でリードされながらも、そこから4点を奪い、4-2で勝利したのである。ディーター・ヘーネスが頭に包帯を巻きながらも、1得点を決めた。その年のユーロピアン・カップでは、決勝でアストン・ヴィラに0-1で敗れた。そしてドイツ代表は、W杯決勝でイタリア代表に敗北を喫した。しかしブライトナーが、W杯の決勝で2大会連続ゴールを決めたドイツ代表史上初の選手となり、歴史に名を刻んだ。

ラテックの下で、世界的成功を果たす

 1965年から1981年の間にバイエルンから合計11回も世界年間最優秀選手が選出された:ベッケンバウアー(4度)、マイヤー(3度)、ミュラー(2度)、ルンメニゲ(1度)、ブライトナー(1度)。

 1983年にラテックが、バイエルンの監督としてミュンヘンに戻ってきた。ラテック率いるバイエルンは、1984年のドイツカップ決勝で、ボルシアMGをPK戦で下し、優勝を果たす。そのPK戦でゴールを外したローター・マテウスが、翌年にバイエルンに加入した。英国ポップグループが、カレ・ルンメニゲの"セクシーな膝"を題材にして作った有名な歌を発表した時期に、同選手は移籍金最高額の1100万ドイツマルク(約8億円)でインテル・ミランに移籍した。

 バイエルンはその1年後も、セーレン・レアビーと若手のヴィッゲール・ケーグルを中心としたチームでリーグ優勝を成し遂げる。Dr.フリッツ・シェーラーがバイエルン会長に就任した1985-86シーズン、バイエルンは、ドイツ国内2冠を達成し、1987年にもリーグ優勝を成し遂げる。しかし、ウィーンで開催された1986-87シーズンのユーロピアン・カップ決勝で、バイエルンはFCポルトに1-2で敗れてしまう。これはクラブにとって大きな敗北だった。

 1988年にユップ・ハインケスがバイエルンの監督に就任する。ハインケスの仕事は、マテウス、ブレーメ、エデル、フーゲス、ミヒャエル・ルンメニゲ、プファフが、バイエルンを去った後に、新しく強固なチームを作り上げることだった。

FCバイエルンの歴史