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支援者であり友である

「デットマー・クラーマーは、偉大な人物だった」

デットマー・クラーマーは、1975年〜1977年まで約3年にわたりFCバイエルンの指揮を執った。彼の下でFCバイエルンは、UEFAカップ・ウィナーズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグに相当)で2連覇を達成、さらに1976年のインターコンチネンタルカップ(現クラブワールドカップ)も制し、ドイツのレコルトマイスターの名を世界に轟かせた。ドイツサッカー協会の最高ランクの指導者ライセンス「フスバルレーラー」(サッカー教師)を所持するクラーマーは、昨日木曜、自宅をかまえるライト・イム・ヴィンケルでこの世から旅立った。

「デットマー・クラーマーは、スポーツマンの枠を超えて多くの人々に影響を与えた」と、FCバイエルンのカール=ハインツ・ルンメニゲ代表取締役はいう。さらにルンメニゲは「私個人にとっては、まるで父親のような友であり、若い頃の私の支援者でもあった。私がプロとして数々の功績を残せたのは、彼のおかげといっても過言ではない。FCバイエルンは、偉大な監督であり、人間としても素晴らしい彼に、心からの冥福を祈る」と語った。

デットマー・クラーマーは、正真正銘の旅人でもあった。ドイツ人監督として活躍の場を求め世界へ飛び出したのは、彼が最初だった。クラーマーは、引退までに90カ国以上でパイオニアとして活躍した。

欧州カップ・ウィナーズカップ2連覇

1974年まで国際サッカー連盟FIFAに所属していたクラーマーは、インストラクターや指導者として世界70カ国を渡り歩きサッカーを指導した。その後、数ヶ月間のアメリカ代表監督を経て、1975年1月にFCバイエルンの監督に就任すると、すぐに成果を残す。ルンメニゲは「バイエルン・ミュンヘンの指揮官として、当時は欧州カップ・ウィナーズカップと呼ばれていたチャンピオンズリーグを2度制したのは、彼だけだ」とクラーマーの功績を振り返る。何よりも1976年グラスゴーでの優勝(ASセイント・エティエンヌを相手に1-0)は「最高の勝利」だったとルンメニゲは述べた。

クラーマーが唯一手にできなかったのが、ドイツマイスターの称号だ。身長165センチと非常に小柄であったクラーマーを、ゼップ・マイヤーが「歩く1メートル」と蔑称で呼んだエピソードが知られているが、「ゼップのユーモアはユニークだからね」とクラーマーは受け流したという。ナポレオンの衣装を着て写真を撮るなど、お茶目な一面も持っていたクラーマーは、特にフランツ・ベッケンバウアーと親しかったようで、本人も生前に「フランツと私は、同じ周波数で送受信をしている」と語っていた。

1977年、クラーマーは、ミュンヘンからアイントラハト・フランクフルトに移籍したが、シーズンの最後には再びフランクフルトから離れることになった。その後、サウジアラビアとギリシャで指導をしたクラーマーは、1982年にブンデスリーガに復帰する。今度はバイエル・レーヴァークーゼンの指揮官を務めた。レーヴァークーゼンで3年間を過ごした後、クラーマーは再び国外に出た。

世界中で敬愛される存在

サッカー愛好家のクラーマーは、異文化への積極的な取り組みでも知られていた。 彼には、異文化となじめば、その土地で敬意を受けることが分かっていた。例えば1980年代末に日本を訪れる前には、鉛筆2本で箸の使い方を練習したという。その翌日には、箸で目玉焼きを上手に細かく切り分けて食べてみせて、選手たちを驚かせた。日本でクラーマーは、サッカーの教授として親しまれ、現在に至るまで日本サッカーの生みの親として尊敬されている。

クラーマーが最も嫌っていのは、挫折である。彼は常に「上には上がある限り、優秀は優秀とは言えないのだ」と口を酸っぱくして唱えていた。この教えに忠実に、クラーマーは「常に少しでも改善しようと努力した」という。もっともクラーマーが残したものは、決してサッカーの監督としての功績だけではない。ルンメニゲは「彼は偉大な監督であり、そして何よりも素晴らしい人間だった」とまとめて述べた。