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2000~2009年

解放

 2000年からの10年間は、FCバイエルンにとってピッチ内外で素晴らしい成功を収める時期となった。6度のブンデスリーガ優勝、5度のドイツカップ優勝、さらには2冠を達成したのだ。バイエルンのトロフィールームは、数多くの優勝カップで覆いつくされた。だが、中でもクラブにとって最もドラマチックな出来事となったのは、間違いなく2001年のチャンピオンズリーグ優勝だろう。そして2002年、バイエルンは株式会社としてスタートすると、その数年後にクラブ新スタジアム、アリアンツ・アリーナが建設され、バイエルン本社の修復工事が共に始まった。

 1999-2000シーズンにチャンピオンズリーグ決勝でマンチェスター・ユナイテッドに悲劇の敗戦を喫した後、その中心メンバーであったオリバー・カーン、シュテファン・エッフェンベルク、ジオバネ・エウベルが翌年の2000-01シーズン、見事チャンピオンズリーグでトロフィーを掲げる。そして2000年初頭、バイエルンにとって“相性の良い相手“であるレアル・マドリードとチャンピオンズリーグ2次リーグで対戦すると、8日間で8ゴールを叩き込み圧倒する(ベルナベウで4-2、オリンピック・スタジアムで4-1)。しかし、準決勝で再びレアルと顔を合わせると、レアルに2次リーグのリベンジをされる。バイエルンはファーストレグを2-0で落とすと、セカンドレグで1-2の勝利を収めるが、合計スコアを3-2とし、決勝進出を逃した。

 バイエルンは、数多くの優勝トロフィーを掲げた。当時の監督だったヒッツフェールトは、シーズン最終節にバイエル・レヴァークーゼンを追い抜きリーグ優勝を成し遂げる。レヴァークーゼンは、シーズン最終節終了間際までリーグ優勝に手が届く位置にいたが、降格するウンターハッヒングに敗れる。一方バイエルンは、ヴェーダー・ブレーメンとドイツカップ決勝に臨み、見事前年のリベンジに成功した。昨年のドイツカップ決勝でも両チームが激突し、PK戦までもつれた試合はブレーメンが勝利を手にした。そのリベンジを果たすべくバイエルンは、ブレーメンに3-0で完勝した。1999-2000シーズンにバイエルン史上、3度目の国内2冠を達成し、オリバー・カーンがその年のドイツ年間最優秀選手に選ばれた。

 とは言え獲得したタイトルもあった。リーグ戦では、ヒッツフェールト監督率いるバイエルンがラストスパートでバイエル・レヴァークーゼンをとらえる。レヴァークーゼンは最終節で降格が決まっているウンターハッヒングにまさかの敗北を喫し、バイエルンが最後の最後でどんでん返しの優勝に輝いたのだ。またドイツカップでは、前年にPKの末敗れていたヴェルダー・ブレーメンと再び決勝で顔を合わせると、3-0で快勝し、クラブ史上3度目となる2冠を達成した。そして、オリバー・カーンがその年のドイツ年間最優秀選手に選ばれた。

2000-01チャンピオンズリーグ制覇

 2000-01シーズンは、おそらくバイエルンに関わる全ての人、ファンにとって素晴らしいシーズンだっただろう。ドイツカップでは、2回戦でFCマグデブルクに敗戦したが、ブンデスリーガではシーズン最終節に優勝を決めた。その最終節ハンブルクSV戦では、パトリック・アンデルソンが後半アディショナルタイムに直接FKを決め、バイエルンが土壇場でリーグタイトルを手中に収めた。余談だが、2位のシャルケ04は、最終節に勝利した直後、バイエルンの結果を待たずにブンデスリーガ優勝を祝福していたが、アンデルソンがゴールが全てを狂わすことになった。

 リーグ優勝を決めた日から数日後、バイエルンは2001年5月23日のチャンピオンズリーグ決勝、対バレンシア戦に向けて意気揚々とミラノへ向かった。“1年前のリベンジ”として・・・。バイエルンは、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドを下したあと、準決勝でレアル・マドリードと対戦。ファーストレグのアウェイ戦を1-0で勝利すると、ホームでも2-1の勝利を収め、決勝へ進んだ。そして、決勝ではオリバー・カーンがその夜のヒーローとなった。試合はPK戦に突入し、なんとカーンがバレンシアの3選手のPKを防ぐことに成功。合計スコア5-4で(ユーロピアン・カップとチャンピオンズリーグを含む)25年ぶりとなる4度目の優勝を果たした。

 2001-02シーズン、バイエルンは新たなタイトルを獲得した。そのシーズンのリーグ戦は、ドルトムント、レヴァークーゼンに次ぐ3位でリーグ戦を終えた。ドイツカップでは、ベスト4でシャルケに2-0で敗れたが、2001年11月に開催されたインターコンチネンタルカップで、サミー・クフォーのゴールを守りきり、1-0でバイエルンがクラブ史上2度目のタイトル獲得を成し遂げた(最後に優勝したのは1976年)。

ヒッツフェールトとの別れ

 2001-02シーズン、国内タイトルと欧州タイトルを獲得できなかったバイエルンだが、2002-03シーズンに再びドイツ王者に返り咲く。2位のシュトゥットガルトに勝点16差をつけて圧倒的な力でリーグ優勝した。また、ドイツカップ決勝ではFCカイザースラウテルンに3-1と勝利する。その試合は、ミヒャエル・バラックが2ゴールの活躍を見せ、エッフェンベルクの抜けた穴をカバー。さらに、バイエルン史上4度目の国内2冠に貢献した。その年、バラックはドイツ年間最優秀選手に選ばれた。しかし、チャンピオンズリーグはグループステージで敗退。悪いこともあれば、良いこともある。CLデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦では、ロイ・マカーイのゴールでチャンピオンズリーグ敗退に追いやられたバイエルンだが、その1年後にマカーイはバイエルンのFWとしてプレーしていた。

 マカーイは2003年の夏、ゼーベナー通りに当時のバイエルン史上最高額の移籍金でやって来た。そしてマカーイは、すぐに移籍金に見合う活躍をする。まさに“ファントム“(マカーイの異名)の名の如く、初シーズンから次々にゴールを決めた。しかし、同シーズンにバイエルンがトロフィーを掲げることはなかった。ブンデスリーガは、ヴェーダー・ブレーメンにタイトルを奪われ、バイエルンは2位で終える。ドイツカップは、ベスト8でアレマニア・アーヘンに敗れ、チャンピオンズリーグはベスト16でレアル・マドリッドに敗北した。

 まさかの無冠で終わった2002-03シーズン終了後、バイエルンは多くのタイトル獲得に貢献し6シーズン監督を務めたオットマー・ヒッツフェールトを解任する。ヒッツフェールトは、4度のブンデスリーガ優勝、2度のドイツカップ優勝、チャンピオンズリーグ、インターコンチネンタルカップの優勝も成し遂げ、バイエルン史上最も成功した監督の1人となった。ヒッツフェールトより多くのタイトルを獲得したのはウド・ラテック監督のみだった。オリンピア・シュターディオンで行われた2003-04シーズンの最終節、ヒッツフェールト監督とアシスタントコーチのミヒャエル・ヘンケは、バイエルンファンから盛大に見送られることになる。彼がピッチを去るとき、観客席からファンがスタンディングオーベーションを送った。まさにクラブの一時代の終わりを意味していた。そして、彼の後継人としてフェリックス・マガトが新監督に就任し、翌シーズンからチームを牽引することになる。

マガト監督と新スタジアムへ

 2004年の夏、FCバイエルンに新しい監督がやって来た。フェリックス・マガトが、数々のタイトルを獲得したオットマー・ヒッツフェールト監督の後任に選ばれたのだ。マガト監督は前監督と同じ成功を辿るようにそのシーズンを戦う。独自のスタイルを持つマガトは、徹底的に選手を鍛え上げた。日によってマガト監督の好きなように練習メニューを組み、時にはメディシンボール(数キロある大きいボール)とリードが付いた重いベストを着させて練習を行っていた。すると、就任から2年連続でリーグタイトルとドイツカップの2冠を達成する(2004-05、2005-06)。2年連続国内2冠はブンデスリーガ、バイエルンにとって史上初の功績だった。

 新しいスタジアムはこの成功の大きなキーポイントだった。2005年5月、ホームスタジアムとして使用していたオリンピック・スタジアムの時代が終わり、33年の栄光に満ちたバイエルンの歴史は新スタジアムのアリアンツ・アレーナに舞台を移した。

 そして2006-07シーズン途中の成績不振を理由に2007年1月31日、2年半のマガト監督率いるバイエルン時代に終止符が打たれた。すると、ヒッツフェールトが再び監督としてバイエルンに戻ってくる。しかし、アーヘンで行われたドイツカップ準々決勝でバイエルンが大会を去ると、残りのシーズンでも同監督はバイエルンを立て直すことができず、2006-07シーズンを4位で終了。ここ10年で初めてチャンピオンズリーグ出場権を逃すことになった。また、バイエルンのユニフォームを着て15年間で15タイトルを獲得したメーメット・ショルが、このシーズンに引退した。

 2007-08シーズン、バイエルンは大幅にチーム戦略を変更し、スター選手たちをミュンヘンに連れてきた。バイエルンは、フランク・リベリーとルカ・トニの獲得に成功する。すると、再びバイエルンにタイトルが戻ってくる。ヒッツフェールトが、再び監督として国内2冠を達成した。ドイツカップ決勝ではドルトムントに2-1で勝利し、ブンデスリーガでは2位に勝点差10ポイントをつけて優勝を果たした。しかしUEFAカップ準決勝では、そのシーズンのUEFAカップ王者になったゼニト・セイント・ペテルブルクに敗れている。そしてシーズン終了後、世界最優秀GKに3度選ばれたオリバー・カーンが引退し、ヒッツフェールトもスイス代表監督に就任するためにバイエルンを離れた。

巨大パフォーマンスセンターの建設

 2008-09シーズン、ユルゲン・クリンスマンがヒッツフェールトの後継人として監督に就任。すると前ドイツ代表監督は、ゼーベナー通りにフィットネスルームを完備したユニークなパフォーマンスセンターと、静かな空間を実現するため静寂ゾーンを作った。しかし、第28節のホームで迎えたシャルケ戦に0-1で敗戦した直後、バイエルンはクリスマン監督を解任。その原因は、同シーズンにドイツカップ準々決勝でレヴァークーゼンに大敗(2-4)、ブンデスリーガでは2008-09シーズン王者ヴォルフスブルクに大敗(1-5)、そしてチャンピオンズリーグ準々決勝でバルセロナに敗戦(0-4)し、無冠でシーズンを終えたことだった。

 残された5節を引き受けたのは、ユップ・ハインケスだった。ハインケスは、優勝したヴォルフスブルクに勝点差2ポイントまで迫る猛追を見せると同時に、チャンピオンズリーグ出場権を獲得し、このシーズンを救った。

FCバイエルンの歴史